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乃木希典大人之命(のぎまれすけうしのみこと)

乃木静子刀自之命(のぎしずことじのみこと)

うつし世を神さりましし大君のみあとしたひて我はゆくなり 臣 希典上

乃木希典の生涯

1849年(嘉永2年)12月25日 豊浦藩(とよらはん・長府毛利藩)

上屋敷で生まれる。幼名無人

10歳まで上屋敷で生活

1858年(安政5年)11月 父・乃木希次一家。現・下関長府へ

1863年(文久3年)12月 元服し、名を「源三」と改める

1864年(元治元年)3月 源三は武士としてではなく、学者として身を立てることを決心する。

父希次に反対され家出して萩藩玉木文之進のもとへ向かう。しかし、希次の反対を押し切り出奔してきた源三を責め、「武士にならないのであれば農民になれ」といい弟子入りを拒否した。玉木の妻の取り計らいにより玉木家に住むことを許され、農業を手伝うことになる。

1865年(慶応元年)2月 長府藩報国隊に参加。

1865年(慶応元年)四境戦争(第二次長州征伐)が勃発

1865年(慶応元年)明倫館文学寮に通学を許される

1866年(慶応2年)萩より豊浦(現・長府)に戻り軍務に就く

同年 名を「文蔵」と改める

1867年(慶応3年)明倫館文学寮に入学

1868年(明治元年)病により明倫館文学寮を退学

1869年(明治2年)報国隊の漢学助教授となる

同年3月 家督相続「豊浦藩士になる」

同年11月 伏見護親兵兵営に入学

1871年(明治4年)陸軍少佐に任ぜられる

同年12月 正七位に叙される。名を「希典」と改める。齢23歳

1877年(明治10年)2月 軍旗を喪失

同年4月 陸軍中佐に任じられる

1878年(明治11年)8月 薩摩藩士湯地定之の4女シズ子(20歳)と結婚

1879年(明治12年)8月 長男勝典誕生同年12月正六位に叙される

1880年(明治13年)4月 陸軍歩兵大佐に任じられる

1881年(明治14年)12月 次男保典が誕生

1885年(明治18年)4月 勲三等に叙し旭日中綬章を賜る

同年5月 陸軍少将に任ぜられ 歩兵第11旅団長を仰せつかる

同年7月 正五位に叙される

1887年(明治20年)1月 ドイツ遊学

1888年(明治21年)6月 欧州より帰国

同年8月 第11旅団管下各県徴兵署巡回

1889年(明治22年)近衛歩兵第二旅団長を仰せつかる

1890年(明治23年)歩兵第五旅団長を仰せつかる

1891年(明治24年)栃木県那須塩原市に別邸を設ける

1893年(明治26年)正四位に叙される

1894年(明治27年)勲二等に叙され瑞宝章を賜る

同年歩兵第一旅団を率いて日清戦争に加わる

1895年(明治28年)陸軍中将を任じられれ、第二旅団長を仰せつかる

同年8月 日清戦争の役の功により功三級金鵄勲章並びに旭日重光章を賜り男爵を受け華族に列せられる

1896年(明治29年)台湾総督に任じられる

1897年(明治30年)勲一等に叙し瑞宝章を賜る

1898年(明治31年)台湾総督を免ぜられ、休職す

1904年(明治37年)日露戦争 2月留守近衛師団長を仰せつかる

同年5月第三軍司令官に任じられる

同年5月27日長男勝典戦死(享年26歳)

同年6月陸軍大将に任ぜられ、正三位を賜る

同年8月旅順総攻撃が始まる

同年11月203高地攻撃開始

同年11月30日次男保典戦死(享年24歳)

同年12月203高地占領

1905年(明治38年)1月1日旅順要塞司令官ステッセル将軍降伏

1906年(明治39年)日露戦争戦役の功により功一級金鵄勲章並びに桐花大綬章を賜る

明治37年・38年戦役従軍記章を授与された

同年7月 第五・第六・第12師官特命検閲使を仰せつかる

同年8月宮内省御用掛仰せつかる

同年9月プロイセン王国・ヴィルヘルム2世皇帝陛下より「プール・レ・メリット」勲章を授与され、受領し、佩用を許される

1907年(明治40年)1月学習院院長に兼任せられる

同年4月フランス共和国より「グラン・オフィシエ・ド・ロルドル・ナショナル・ド・ラ・メレション・ドノール」勲章を受領し佩用を許される

同年8月従二位に叙された

同年9月勲功により伯爵を昇授せられた

1909年(明治42年)チリ共和国政府より金製有功章を受領佩用を許される

1911年(明治44年)10月ルーマニア皇帝陛下より「グラン・クロア・ド・ロルドル・レトワール」勲章を受領し、及び佩用することを許される

同年同月 グレートブリテン皇帝皇后両陛下戴冠記念章を受領し佩用することを許される

1912年(明治45年)5月 グレートブリテン皇帝陛下より「グランド・クロッス・オブ・ゼ・ヴィクトリア」勲章を、6月同国皇帝陛下より「グランド・クロッス・オブ・バス」勲章を受領し佩用することを許される

同年7月 明治天皇崩御

1912年(大正元年)9月13日明治天皇陛下の御轜車宮城を発する際、天皇の御跡を追慕し赤坂の自邸において静子夫人と共に殉死した

1916年(大正5年)皇子裕仁親王のために、立太子の大礼を行わせられるにあたり正二位を贈られる

出でましてかへります日のなしときくけふの御幸に逢ふぞかなしき 希典妻 静子上